2022年8月27日(土)
14:00-16:00(予定)
軽井沢大賀ホール(無観客)
指揮 和田一樹
L.v.Beethoven 交響曲第6番『田園』
J.Brahms 交響曲第2番
ライブ配信はこちら!
2022年8月27日(土)14:00より配信予定!
https://youtu.be/XmtdDLaCdUM
第一楽章 Allegro ma non troppo 2/4拍子
田舎に着いた人の中に目覚める、快く朗らかな感情
第二楽章 Andante molto moto 12/8拍子
小川の情景
第三楽章 Allegro 3/4拍子
田舎の人々の愉快な集い
第四楽章 Allegro 4/4拍子
雷鳴、嵐
第五楽章 Allegretto 6/8拍子
羊飼いの歌。嵐の後の、慈しみ深く神性への感謝を伴った気持ち1
シラー、フィヒテ、ヘーゲル等々。18世紀に花開いた啓蒙思想とその展開は、彼らのようなドイツ人たちを近代的な時間のレールの上に乗せた。伝統的な封建世界の時間とは異なる、飽くなき進歩と発展の時間である。同時代人のベートーヴェンも、そのような近代の時間意識をつかみ始めていた。彼らの「絶対的未来の<像>に導かれて現在を考える未来優位の時間意識」2においては、理性の働きによって普遍的で合理的な世界が実現することになっているから、過去や現在の慣習は否定されやすい。
ベートーヴェンが、機械で計る普遍的なテンポというアイデアに飛びついたことは有名である。あの「メトロノーム」が発表された1817年、彼は早速自作の交響曲にメトロノームの値を割り振った3。その9年後には、楽譜出版社宛の手紙の中で次のように述べている。
メトロノームづけは次回に送ります。それまでお待ちください。われわれの世紀はたしかにそのようなものを必要としているのです。[...]時代が自由な天才の想念の方に向かって方向付けられなければならなくなった今、われわれはもはやTempo ordinarioをもつことなどできないのです4。
Tempo ordinarioとは、当時の奏者に慣習として共有されていた、いわば標準テンポのようなものである。当時は曲想、速度記号、拍子、細かい音符の有無といった楽譜上の情報を踏まえて、どこをTempo ordinarioでとるか判断していた5。ベートーヴェンは音楽家として、そして啓蒙主義者として、そのような伝統を窮屈に感じていたのである。天才の音楽のテンポは、世間の風習ではなく普遍的な数値表現によってはじめて理解されるものではないか?
とはいえ奏者あっての作曲家であるから、彼がメトロノームで定義したテンポも、結局はTempo ordinarioの体系から逸脱するものではなかった。彼は音楽家の共通言語を捨てることなく、いわば「古い世界に半分以上足を置」きながら6、新しい時代に向けて踏み出すべき場所を探しているような人物であった。《田園》の面白さは、そんな彼の二面性に潜んでいるように思われる。
さて、交響曲第6番ヘ長調作品68《田園》には、上述した標題や楽章ごとの副題がある。これらは1808年の初演時に作曲者によって書かれたもので7、この曲のテーマが「思い出」であること、したがって記憶の中に美を求めていることを窺い知らせてくれる。《田園》の主人公は、農村が呼び起こす感情、美しい風景、人々と過ごした時間、自然の恐ろしさ、さらには超越的な存在への感謝の念を思い起こす。いずれもあるがままで充足しており、それ自体が神性の発現であるような、印象深い記憶である。
ここでは未来優位の時間意識に出番はなさそうである。というのも、農村の時間のサイクルの中では、どのシーンにも時が来れば再会できるように思われるからである。農事暦的に反復・循環する「可逆性としての時間」8の思い出、それは《運命》交響曲のような、いわゆる「暗から明へ」前進していく人間精神のドラマとは大きく異なっている。完全なものが既にそこで巡っているならば、誰が前進する必要があるだろうか。主題の音形を執拗に再利用するベートーヴェンの作曲手法も、《田園》ではそんな前近代的な時間感覚を想起させるように感じられる。私たちはここに、近代人としての顔と釣り合いをとる彼のもう一方の顔を見ているかもしれない。
蛇足を重ねると、ベートーヴェン自身はケルン選帝侯領の都ボンに生まれ育ち、帝都ウィーンをはじめとする都市で活躍した都会っ子である。ゆえに《田園》の主人公もあくまで「田舎に着いた人」なのだろう。作曲者はウィーン市街から目と鼻の先にある避暑地、ハイリゲンシュタットで本作の仕上げに着手している9。「自由な天才」にも保養が必要だったらしい。
(佐野智彦)
(参考文献)
Beethoven, Ludwig van, Symphonie Nr. 6 in F-dur »Pastorale« op. 68, Del Mar, Jonathan (Hg.), Partitur, Kassel 2001.
加藤拓未「《田園》の成立から初演まで」国立音楽大学音楽研究所ベートーヴェン研究部門(企画・構成)『《田園》交響曲 自然の中のベートーヴェン』、2005年、5-8頁。
龍村あや子「ベートーヴェンとヘーゲルに見る<近代>の時間意識:アドルノ中期ベートーヴェン論を中心に」『北海道東海大学紀要 人文社会科学系』第2号、1989年、121-134頁。
土田英三郎「《田園》交響曲 六つの視点」『《田園》交響曲 自然の中のベートーヴェン』、2005年、2-4頁。
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1981=2003年。
渡辺裕「機器のもたらす音楽の「近代化」:『一般音楽新聞』にみるメトロノームの感性と普及」『待兼山論叢 美学篇』第27巻、1993年、1-25頁。
―――「ベートーヴェンのメトロノーム記号が語るもの―テンポの「近代化」の中の作曲家―」『美学藝術学研究』第15巻、1997年、81-106頁。
第一楽章 Allegro non troppo 3/4拍子
第二楽章 Adagio non troppo 4/4拍子
第三楽章 Allegretto grazioso (Quasi andantino) 3/4拍子
第四楽章 Allegro con spirito 2/2拍子
ブラームスの第二交響曲は1877年、オーストリアの湖畔の町ペルチャッハにて作曲された。彼の地での楽しい思い出の一つとして、友人と連れ立ってアムペッツォ渓谷へ2日間の散歩に出かけた時のことを、ブラームスはクララ・シューマンに宛てて次のように書いている。
「これ以上に美しい散歩を経験できる人なんていないに違いありません!〔…〕今日は湖畔から〔対岸の町である〕マイヤーニックが見えます。我々のペルチャッハは向かい合って左に位置しています。それにしてもアムペッツォ渓谷に来たら、きっと君もうっとりすることでしょう!とりわけ、山々(ドルミッテの岩山の、どれだけ見ても飽きることのない独特の形と色)、湖、花々、きらきらと輝く川の流れ、そのほか全部に。」1
自然の美しさが人を癒す。癒された人は音楽を書き、その美しさがまた人を癒す。ペルチャッハでプラームスが拾い集めた川のせせらぎ、森の歌、花と蝶のダンスは、音楽の風に乗って場所も時代も超えた旅をし、疲れ切った現代の我々の心をも慰めてくれる。
我々は何にそんなに疲れているのだろうか。それは、近代的な〈時間〉の感覚であるかもしれない。時計によってカチカチと一定のリズムで測られ、現在から未来に向かって、あらゆる人類にとって等しい速度で進む機械的な時間。何分後にはこれを終わらせ、何時にあそこに行き、この日までにはそれをしていなければならない。近代の時間は生産性という概念を生み出して人類に進歩と発展をもたらしたが、一方で時間に追い立てらた人間の心はすり減り疲弊するようになった。
こうした近代的な時間が、のんびりと流れていた中世の時間を飲みこんでしまった時、人々はあくせくした社会から逃れてひとときの休息を得たいと願うようになった。そうした逃げ場のひとつが自然であり、あるいは音楽であっただろう。外界からぴったりと閉ざされたコンサートホールの中を流れる時間は、生産・効率といった近代的価値観とは無縁である。何も生み出さず、何かをもたらすこともなく、ただその空間を流れるほかない音楽という時間芸術。その美しさに身を委ねるとき、人々は近代的時間からの束の間の解放を得た。音楽が流れている間、無機質な近代的時間は、生き生きとした美的時間へと作りかえられた。
こうした観点から見れば、19世紀初頭という時代は、音楽が時間の性質を変えるものとして機能しはじめた時代として記述されることもできよう。そして当時の人々にとって、この美的時間は家や街中では決して味わうことのできないものだった。だから人々はこぞってホールへ足を運び、生まれては消えてゆく音たちの連なりを聴き漏らすまいと一斉に耳を傾けた。美的時間は彼らにとって、巻き戻すことも繰り返すこともできない、その場限り、一回だけの体験であった。
だが、我々にとってはそうではない。エジソンの蓄音機に端を発する録音技術が、美的時間を「一回きり」の制約から解放したからである。奇しくもブラームスはその瞬間に立ち会っていた。1889年にブラームス自身の演奏で蓄音機に吹き込まれた《ハンガリー舞曲第1番》は、歴史上初めてのピアノ録音として、今でも聞くことができる2。(余談だが、新し物好きのブラームスはこの時大変緊張していたようで、録音技師の準備が終わるのを待たずにピアノを弾き始めてしまったらしい。そのため最初の数小節は録音に入っていない。)
ここから130年余りが過ぎた現在、我々は時間を超え場所を超えて音楽を聴くことのできる完全な自由を手にした。我々は、昔々にピアノの鍵盤を叩いたブラームスの指の動きを、スマートフォンのスピーカーから聞き取ることもできる。あるいは遠く離れた場所で開催されるコンサートを、自宅でリアルタイムで視聴することもできる。我々は音楽を自在に、自分好みの方法で聴くことができるようになったのだ。お気に入りの楽章だけを後から繰り返し聴いて楽しんでも良いし、何かの作業のお供に垂れ流しておいても良い。19世紀の聴き手にとってホールの座席でじっと享受するだけのものだった美的時間は、今やまるでお気に入りのインテリアで空間を飾り立てるかのように、聴き手が積極的にデザインできるものへと姿を変えたのである。
高度に発達した録音と大量複製の技術を使って、我々は音楽を持ち運び、切り取り、好きな場所に並べることができるようになった。テクノロジーによって拓かれたこのような聴き方においては、確かに生演奏の醸し出す特有のオーラ(Aura)のようなものは薄まってしまうかもしれない。だが、「聴き手の時間を美的時間に変える」という音楽の機能は、複製技術時代以前から変質したわけではないだろう。それに、そもそも芸術という営みそれ自体が「美しい自然の模倣」というある意味で複製のわざ(ラテン語でars、ギリシア語でtechnē)によって始まったのではなかったか。ペルチャッハの自然の中でブラームスが拾い集めた色とりどりの音楽の果実は、芸「術」(art)という籠に詰められて、世界中の人の心を潤した。録音の技「術」(technique)を通じて届く音楽もまた、未だ近代的時間の支配の手を逃れていない我々に、今日もひとときの休息を運んでくる。
(中山未由希)
(参考文献)
Clara Schumann und Johannes Brahms., Briefe aus den Jahren 1853–1896, 2. Band, 1872-1896. im Auftrag von Marie Schumann, hrsg. von Berthold Litzmann, Breitkopf & Härtel, Leipzig, 1927.
1C. Schumann und J. Brahms (1927), S.121-122. 〔〕内の中略と補足は筆者による。
2https://youtu.be/BZXL3I7GPCY (2022/08/14閲覧)
1Del Mar (Hg.), 2001. 第三から第五楽章は休みなく続けて演奏される。
2龍村、132頁。
3渡辺(1993)、8-9頁。
4渡辺(1997)、97頁(渡辺訳、中略は筆者による)。引用元はRiehn, Reiner, Beethovens Verhältnis zum Metronom: Eine Dokumentation von Reiner Riehn, Musik-Konzepte 8, 1979, S. 84.
5前掲論文、94-95頁。Tempo ordinarioはTempo giustoとも表記される。
6前掲論文、102頁。
7土田(2005)、3頁。
8真木(1981=2003)、195頁。
9加藤(2005)、7頁。