2023年12月9日(土)
開場13:00 開演14:00
文京シビックホール 大ホール
指揮 寺本義明
J.Sibelius 交響曲第3番
J.Sibelius 交響曲第5番
J.Sibelius 交響曲第7番
今から170年ほど前、1865年12月8日、南スオミの小都市ハメーンリンナ(Hmeenlinna)はとても寒い日だった。大地のあちこちに湖として残る氷河の削りあとが固く凍りついたので、人びとは馬車でこの上を通行することにした。そんな日に生まれたャンネ(Janne)という赤ん坊がいた。彼はやがてヴァイオリンを学ぶ若者に成長すると、貿易船の船長として世界中を飛び回っていた伯父にあやかって、自分をフランス風に「ジャン(Jean)」と呼ぶようになった。
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「Japanilainenは自分たちのことを"nihonjin"と呼ぶそうだよ」「フィンランド人は自分たちのことをSuomi(スオミ)と呼ぶんだって」
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「そうです、フィンランドというのは“フィンの国”という意味です。フィンとは何か、ですか?語源はよく知リませんが・・・少なくともフィン人は、スウェーデンやノルウェーやデンマークといったゲルマン人たちとも、ロシアのスラヴ人とも違う言葉を話します。ハンガリー語とは遠い親戚関係にあります。だから、我々は周辺の民族とまったく違うルーツを持っていると言えます。古代ローマの歴史書『ゲルマニア』にはすでに“北方に住む貧しいフィンニ人”とあるようです。フィンニ人がそのまま現在でいうフィン人かどうかはわからないですが、貧しい北方の地というのはあたっていますね。なにしろほら、寒いですから。冬なんて1日のうち2時間しか日が出ていなかったりします。ご先祖さまもどうしてわざわざこんなところに定住したのでしようか。6世紀ごろからだんだん周りのゲルマン人たちが王国を形成しはじめるのですが、我がご先祖たちは国をつくらず、キリスト教も取り入れず、ライ麦を育て動物の毛皮を売って暮らしていたそうです。のんきなものですよね。国がなかったので、13世紀に入る頃にはスウェーデンの支配下におかれました。スオミたちはどう思ったのでしようね。国がなかったということは歴史書が書かれなかったということですから、れについてスオミの視点から語られた言葉は遺されていませんが、あんまリ気にしていなかったのかもしれないと僕は推測します。だって、現在のフィンランドにスウェーデン語を話す人がわりかし多いのも、これがきっかけなのですから。
歴史の話に戻ると、中世から冷戦終結まで、フィンランドはずっと、北方のゲルマンの国々とロシアという大国に挟まれて、小競り合いやら大競り合いやらに関わることを余儀なくされてきました。でもうまいことやってきたんですよ、どの国とも民族が違うのにね。今、戦に巻き込まれることなくひとつの国としてやっていけているのがその証だと思います。そんな中でも大きな出来事を挙げるとすれば、そうですね。1809年にロシアの支配下に置かれて、しばらくはわりあい自由にさせてもらっていたのですが、その後です。1881年にロシア皇帝が暗殺され、ちょうどそのころドイツが植民地を増やそうとしはじめて、怖くなったのかしらないが、1899年、ロシアが急にフィンランドの自治権を剥奪してきやがったんです。れには国民みんな怒りました。ロシアとは違う、北欧の一員として、フィンランド人として、致団結しなければならないと思ったんです。そこからはもう、1914年に開戦した第一次世界大戦まで含めて、ロシア、ソ連との睨み合いの時代です。20世紀前半のフィンランドの空気感というのは、そのような感じでした。」
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1907年交響曲第三番初演(シベリウス42歳)
1915年交響曲第五番初演(シベリウス50歳の記念演奏会のために)
1924年交響曲第七番初演(シベリウス59歳、書き上げた中では最後の交響曲)
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シベリウスが交響詩を書いたのは、民族の言葉で歌うためだろう。最も有名な1899年の《フィンランディア》は当初「フィンランドは目覚めるSuomi herää」として構想されたものだし、その少し前に初演された《レンミンカイネン組曲Lemminkäissarjaan》や晩年の《タピオラTapiola》はいずれも、医師工リアス・リョンロート(Elias Lönnrot)が編纂・執筆した民族叙事詩『カレワラKalevala』––––19世紀から20世紀にかけて、フィンランド人の民族意識形成に非常に大きな役割を果たしたと言われる––––に材を取っている。では、交響曲についてはどうか?西ヨーロッパの芸術音楽の伝統を引き継ぐ、言葉をつかわない器楽の形式で音楽を書くとき、シベリウスは何を目指したのだろうか?
シベリウス自身が書いた論文がある。「私の交響曲は、全く文学の要素を持たない音楽的表現である。私は決して文学的音楽家ではない。私にとって音楽は、言葉が語り得ない所から始まるのである。」「自国の民俗音楽を熟知している作曲家は物事を必然的に異なる視点でとらえ、別の要素を強調し、他者とは全く違った手法で自己の芸術を完成させるのである。そこに芸術家の独自性が存在する。しかし創作においては、特に表現手法に関して、できる限り口一カルなものから自由でなければならない。それをいかに達成するかは作曲家の個性によるのである。」交響曲は言葉をもたない。だからそれは交響詩と比べた場合、よりいっそうローカルなものから自由なはずだ。だが、そこには作曲家の独自性がどうしても介在する。べートーヴェンでもワーグナーでもチャイコフスキーでもない、シベリウスというひとの個性がそこにはある。そして、ローカルなものから切り離してしまったら、ひとはそのひとでなくなってしまうだろう。
シベリウスは交響曲で、文学的な領域においては何も目指さなかった。それは、ただそこにある。ローカルなものをあえて用いることも、あえて捨てることもせず、ただ、そこにある。
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1904年、首都へルシンキは、近代化の波とともに激化したカレジョアジー対プロレタリアートの闘争によって治安がみるみる悪化していた。自身もすさんだ生活を送っていたシベリウスは、都市から離れ、トウースラ湖(Tuusulanjärvi)のほとりに小さな家をたてて、妻アイノと子供たちとともに自然の中で暮らすことを決めた。町の「肺」にも喩えられる南北に細長いこの湖と、それを囲む手付かずの森林は、酒とタバコでぼろぼろになった作曲家の身体に冷たく澄んだ空気を送り込んだことだろう。以後五十年あまりを過ごすことになる、緑の暖炉をそなえつけた赤い屋根の小さな家は、「アイノのいるところ(Ainola)」と呼ばれた。引っ越しを終えた頃シベリウスは、交響曲第三番に着手した(とはいえ、なかなか筆は進まなかったようなのだが)。
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「すてきなテーマを得た。アダージオの交響曲へ。-大地、虫、悲嘆、強音と微妙な寂音、たくさん静かな音を!そして音は神々しく!!震えながら魂が歌うとき、歓喜と充足を味わった。」(1914年の日記)
「きよう11時10分前に16羽の白鳥を見た。大いなる感動!神よ、なんという美しさだろう!白鳥は長い間私の頭上を舞っていた。輝く銀のリポンのように、太陽のもやの中へ消えていった。声は鶴と同じく吹奏楽器のタイプだが、トレモロがない。白鳥の声はもっとトランペットに近い・・・・・・小さな子供の鳴き声を思わせる低い繰り返し。自然の神秘と人生の苦悩・・・・・・長い間、真の感動から遠ざかっていた私に、これはおこるべきであった。つまり、私はきよう聖なる殿堂にいたのだ。1915年4月21日」
(いずれも交響曲第五番の作曲のさなかに)
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酒酒酒、タバコ、母譲りの神経過敏、酒酒、暴食。愛娘の死、酒酒酒。産みの苦しみ、なかなか筆の進まないストレス、酒酒酒、タバコ、暴食。心因性の難聴、酒、タバコ、酒。止まらない手の震えも、酒を飲めば治まる。酒酒酒、暴食、タバコ。「シベリウスに会ったらよろしく伝えてくれませんか。タバコと破滅的な生活をやめなければ、彼は直に死んでしまうでしよう。」友人からの忠告。酒酒、暴食。アイノラへ移り住んでも、なにかと理由をつけては街へ下り、酒酒、暴食。酒を飲まねば曲が書けない。親友の死、大切な弟の死、酒酒、暴食。飯を食っていて危うくすっぽかすところだったコンサートでは、酩酊状態で指揮をしたために曲を途中で止めてしまった。ストレス、酒、暴食、むしばまれた心。
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「第七番は人生の喜びとヴァイタリティに満ちあふれ、情熱的な部分も伴うでしよう。」
(1918年5月20日、親友カルペラン宛の手紙)
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「音楽は悲しみから生まれるのです」(1957年9月24日付の新聞。シベリウスの死亡告知とともに、妻アイノの意向で掲載された言葉)
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「ほら見てごらん、鶴が飛んできた。私の青春の鳥たちが!」(1957年9月18日、アイノラのべランダで娘に言ったとされる言葉)
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「神との闘い。新しい交響曲にはこれまでと違う、より人間的な形式を与えよう。もっと大地に根差した形式、生命の躍動に満ちた音楽。問題の核心は、それに携わる私自身がどんどん変化していることだ」(1916年1月26日の日記、難航した交響曲第五番の改訂作業にあたって)
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交響曲の基本的な形式は、ソナタ、緩徐楽章、舞曲やスケルツオ、フィナーレという4つの性格からなる。シベリウスは交響曲ではローカルなものをあえて採用しない方針をとっていた。だから彼はハイドン以来のこの伝統的な語法を学び、作品全体をひとつの動機で貫くべートーヴェンの精神を自らのものとし、そのうえで独自の音楽を紡ぎだそうと苦心した。以下に示すのは、シベリウスが実際に三つの交響曲で採用した形式である。
第三交響曲(全3楽章、30分程)
1.ソナタ形式 2.緩徐楽章 3.スケルツオとフィナーレ
第五交響曲(全3楽章、30分程)
1.ソナタ形式と接合されたスケルツォ 2.緩徐楽章 3.フィナーレ
第七交響曲(単一楽章、20分程)
緩徐楽章をベースに、シンフォニーの4つの性格が凝縮してすべて現れる
シベリウスは、交響曲における「カオスからの楽章の結晶」に言及している。断片的なカオスが成熟し、やがてつながってひとつの結晶へと成長していく。霧ともやが広がるカオスの空間から、モチーフが有機的に発展してフィナーレヘと進む。一度出来はじめたらただ生長し凝縮しつづける結晶のように、交響曲は途切れることなく、ただ歩き続けることを志向する。
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「フィナーレを締めくくる『最後の行進曲』は決して速過ぎてはいけません。敬虔な気持ちで演奏するように」(第三交響曲について、娘婿で指揮者のユッシ・ヤラスにシベリウスが伝えたとされる言葉)
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戦争の傍らでも湖と大地はただそこに横たわり、鶴と白鳥は血を流し合う人間の頭上をただ悠々と飛んで渡っていく。そのような超越的なもののそばに棲み家を置いた人間が、アルコールとニコチンに心身を浸しながら書いたシンフォニーもまた、ただそこにあって、歩き続ける。