Dvorak

第6回演奏会

2022年12月25日(日)

開場13:30 開演14:00

神奈川県立音楽堂

指揮 寺岡清高

A.Dvorak 交響曲第7番

A.Dvorak 交響曲第8番

生まれ故郷の土地は、生まれ故郷の言葉のようなものである。〔…〕それは何かの影響などではなく、もっと根源的で、もっと強いものである。それは、自分の魂と人格の一部なのだ。

――カレル・チャペック『チェコスロヴァキアめぐり』から

 〈わたし〉は何者か?この問いにひとつの定まった答えを与えることはできない。ただ、〈わたし〉を形づくっているもの、その中でも特に重大なものを並べ挙げることはできよう。そしてそこには、どこで生まれ、どの言葉を最初に覚え、どのような人々に囲まれて、どのような光景を見、どのような音楽を聴いて育ち、どんな信仰や信念を持つようになったか、といったことが含まれるはずだ。つまり、わたし個人のアイデンティティは、わたしが属する集団の文化や起源と大いに関わる。ここに「〈わたし〉は何者か」という問いは、「〈わたしたち〉は何者か」という問いへと接続する。

 では、どこまでを〈わたしたち〉とみなせばよいか?わたしと同じ血筋の人々は〈わたしたち〉とみなしてよいだろうか。わたしと故郷を同じくする人々はどうだろうか。あるいはわたしと同じ宗教をもつ人々は?ある者は次のように考えた。「〈わたしたち〉とは〈わたし〉と同じ言葉を話す人々である」。こうして〈わたし〉の含まれる共同体の外縁は、言語に基づく単位と等しいものとして設定された。そうして、同じ言語を持って生まれた人々をひとつの「民族」とみなすという考えが生まれた。

 民族というこのまとまりは、あらゆる人間にとって根源的な〈わたし〉〈わたしたち〉という問いと絡みあってしまったがために、共同体の内部とみなされる人々を否応なしに結びつける。そしてこの抗いがたい団結の作用はすぐに「国家」のために使われるようになった。大国は自分の領土に住まう人々をひとつの「国民」として団結させ均一化することで、強固な一枚岩になれると考えたのである。このことが、力の発生源から遠い人々にたいして暴力的にはたらいたことは想像に難くない。国家の周縁にいた人々、大国と大国のはざまに暮らしていた人々は、均一化のスローガンに飲み込まれ、自らの言語を、文化を、力の渦の中心へ吸い取られることとなった。したがって彼らにとって〈わたし〉〈わたしたち〉への問いは、それを取り戻すという地平から出発せざるをえないという点で、より一層深刻な問いであった。

 ドヴォルザークの生まれた1841年のチェコは、まさにチェコ人としての〈わたしたち〉を取り戻そうという時代にあった。チェコは民族としてはスラヴの一員でありながら、当時ドイツの支配下にあった。ドイツ語が公用語として定められてからすでにおよそ100年が経過しており、チェコ語は話し言葉としては使われていたものの、ものを考え文化を育む言語ではなくなっていた。では、〈わたしたち〉はドイツ人なのか?そうなのだとしたらこの、母の口から伝え聞いて覚えたわたしのチェコ語はいったいなんなのか?わたしたちは「チェコ人」として目覚めるべきではないか?こうした意識の芽生えが、19世紀のチェコ人に民族復興のための物語を次々と書きおろさせた。建国時代の9世紀にキリスト教化を進めたヴァーツラフ1世や、14世紀に教皇の権威を批判しチェコ語による布教を行なって火刑に処されたヤン・フスを、民族の歴史的英雄として讃える像が建設された。1825年には『チェコ文学史』がチェコ語で書かれ、1835年から39年にかけては『チェコ語辞典』が編纂された。1862年に建設が決定したプラハ国民劇場では、スメタナの《わが祖国》が初演された。劇場のヴィオラ奏者としてこの演奏に参加していたドヴォルザークにとって、「チェコ人としての〈わたし〉とは何者か」という問いは、時代の空気と共に肺に吸い込まれて細胞のひとつひとつにまで染み込んだ、自問されて当然の問いだったかもしれない。

 ドヴォルザークが自らをチェコ人として意識していたことは、自作曲の楽譜のタイトルを、ドイツ語だけでなくチェコ語でも記してほしいと出版社ジムロックに頼んでいた、というエピソードからも伺える。自分が生み出す作品と自分を生んだ祖国とは、他の多くの芸術家同様彼にとっても切り離すことのできないものだったと言えよう。ドヴォルザークの故郷はチェコの西半分のボヘミア地方にある農村で、彼はここにある肉屋兼酒場の長男として生まれた。幼いドヴォルザークは、昼間には祖母の語るボヘミアの昔話を、夜には酒場の賑やかさと陽気で快活な民俗舞踊を、日曜には教会の荘厳なミサとグレゴリオ聖歌を、その耳にたっぷりと浴びながら育った。12歳になると、少年は肉屋の免許を取るのに必須だったドイツ語を習いに隣町の職業訓練校に通う。ここで校長を務めながら教会オルガニストをしていたリーマンがドヴォルザークの才能を認め後押ししてくれたおかげで、彼は肉屋ではなく音楽家の道を歩むことになった。リーマンに音楽理論の基礎を教わったドヴォルザークは、16歳のときにプラハオルガン学校へと進み、バッハやヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェンらの技法を学ぶ。

 こうしてドヴォルザークは、ドイツ的な古典様式を吸収し、自らの音楽語法として確立させていった。とりわけベートーヴェンという偉大な先人の放つ光は青年にとってはまばゆいものだったようで、ドヴォルザークは生涯彼を尊敬し続けた。一方でドヴォルザークの身体には、生まれ故郷ボヘミアの風土と、チェコ民族復興という時代の空気も染みこんでいた。ドイツか、チェコか。この〈わたし〉という問いへの応答としてドヴォルザークがまず選んだのは、自らの獲得した古典的な音楽語法でもってスラヴの民謡を語る、というものだった。きっかけは、1875年出版の『モラヴィアの国民歌謡』と題された民謡集との出会いである。チェコ東部のモラヴィア地方で採集されたこの民俗詩をもとに彼が仕立てあげた小品は、ブラームスの目にとまって賛辞を得、ドヴォルザークに初めてのチェコ国外での成功をもたらした。これ以降、彼は故郷ボヘミアの陽気な舞踏にとどまらず、モラヴィアの自由な歌や、さらにはウクライナの民謡ドゥムカにまで目を向け、チェコ的なというより、ひろくスラヴ的な色彩を自らの音楽で表出することを試みるようになる。そうした色が濃厚に現れている作品のひとつが《スラヴ舞曲集》だろう。ここでドヴォルザークは、単なる民謡の引用に終始せず、民謡に特徴的な拍子やリズムを抽出し、その様式の上で古典的な音楽語法に則って独創的に民謡を「作曲」している。

 《スラヴ舞曲集》の民族色が掻き立てるノスタルジーはチェコ国外でもてはやされ、ドイツでは楽譜が飛ぶように売れた。このことはしかし、ドヴォルザークに〈わたし〉という問いをふたたび、しかもより深刻な形で突きつけた。それは、この商業的成功が真にスラヴ的なものが理解されたことを意味しないのではないか、単なるプロパガンダに成り下がってしまっているのではないか、という問題である。またこれと並行して別の問題も出現した。ドヴォルザークは《スラヴ舞曲集》の後に愛国的なチェコ語オペラをひとつ作曲していた。これは国内では一応の成功を収めたものの、ドヴォルザークの野心とは裏腹に、国外では見向きもされなかった。あまつさえドレスデンやウィーンなど反チェコ感情の強い地域では、リブレットをドイツ語に変更するよう要求された。それでは全く意味がなかった。さらにこれらの悩みの噴出と重なる時期に最愛の母が死んでしまったことで、彼は輪をかけて追い詰められていった。ほんとうのスラヴとは、〈わたしたち〉とは何かという自問の苦しみと、母という〈わたし〉のルーツの消失により、ドヴォルザークの精神は民族的闘争へ沈んでゆくこととなった。

 《交響曲第7番》はこの闘争の時期に生まれた。このときすでに友人となっていたブラームスの第三交響曲がドヴォルザークに筆を取る気力を与えたということも、この作品の悲劇的な気分にいくぶんか寄与したかもしれない。ドヴォルザークはこの交響曲に、前年に作曲していた序曲《フス教徒》のモチーフをちりばめ、ヤン・フスの焚刑後怒りに燃えあがったチェコの民衆が神聖ローマに挑んだ闘いとその精神を讃える民俗的な歌を編み込んでいる。第一楽章第一主題は、モラヴィアの民謡に特徴的な半音低められた自然七度によって、フスを讃える中世のコラール《汝ら神の戦士らよ》を思わせるような、古めかしい旋法の色合いを滲ませる。経過句では第二ヴァイオリンと木管が力強いフォルツァンドによって《序曲》のアレグロ主題を吐露する。変ロ長調の第二主題は、これもまた中世から伝わるフス派の単旋歌《聖ヴァーツラフよ》に似た穏やかな歌を抒情的に歌う。曲全体を通して浮き立つシンコペーションのリズムは、ビザンチンのメリスマ的伝統に根ざしたモラヴィアの自由な歌の様式をただよわせる。そして第四楽章においてふたたび《序曲》主題が登場し、民族の苦難と闘争の讃歌が響かされる。

 《第7番》で血の滲む民族的精神を吐き出したあと、ドヴォルザークの〈わたし〉への闘いは一区切りついたようである。作曲家としての国際的な名声も確実となって、演奏会のために訪れたイギリスでは拍手と歓声で迎えらたし、前作よりも広い地域に目を向けポーランドやクロアチアにまで題材を求めた《スラヴ舞曲第2集》の売れ行きも順調だった。こうした商業的成功も、もう以前のようにドヴォルザークを悩ませることはなかった。彼はボヘミアの田舎町に別荘を買って、自然に囲まれながら過ごすようになった。鳥のさえずりに耳をくすぐられ、森の澄んだ空気に心を浸したドヴォルザークにとって、〈わたし〉を獲得するために、もはや闘いの形式を取る必要などなかった。ただ〈わたし〉を生きる歓びを歌いあげるだけでよかった。

 こうして《交響曲第8番》は歓びの感情にきらきらと輝く作品となった。ここにはスラヴの素朴な民族精神が息づいていて、たとえば第三楽章トリオ主題は、村のいじっぱりな恋人同士を描いたドヴォルザークのオペラ《頑固者たち》の、牧歌的な民謡風アリアから取られている。トリオを抜けると美しくメランコリックな主要主題が再現されるが、コーダは雰囲気を一変して、村人が集う酒場のような明るい賑わいの音楽になる。こうした場面は、夢想的な短調の旋律と陽気な喧騒とが自在に入れ替わる、ウクライナのドゥムカの形式を思わせる。第四楽章はテンポの速いボヘミア舞踊のスコチナー風で、村人たちがくるくると軽やかに跳ね回る。

 ドヴォルザークにとっての〈わたし〉とは、ドイツ的な語法と、故郷ボヘミアの素朴な色彩、そして広いスラヴへの眼差しが、緩やかに溶け合う地平に見出されたものと言えるかもしれない。苦難の精神的闘争によって自問され、その後は純粋な歓びで唄われたドヴォルザークの〈わたし〉は、彼が64歳でこの世を去るまで、彼という人間の源泉であり続けた。そしてこれからも〈わたし〉〈わたしたち〉という問いはさまざまに問われつづけるだろう。ドヴォルザークの同郷の後輩ヤナーチェクは、「ボヘミア人ではない、モラヴィア人としての〈わたし〉」を打ちたてようと試みたし、北欧に目を移せばシベリウスは、ロシアに奪われんとしていた「フィンランド人としての〈わたしたち〉」を守ろうとした。彼らの切実な〈わたしたち〉の希求は、権力の中央と周縁という力場が解消しない限り止むことはない。シラーは「すべての人間は兄弟となる 汝の柔らかな翼が留まるところで」と理想を詠んだが、バベルの塔建設が神の怒りにふれて言語を分断された人間にとって、シラー的ユートピアの実現は当分の間不可能のように思えてしまう。今の我々にできるのは、先人の遺した〈わたしたち〉の音楽を奏でて、心が慰められるのを願うことくらいなのだろうか。