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第5回演奏会

2019年9月29日(日)

開場13:30 開演14:00

《ベートーヴェン vol.3》

文京シビックホール 大ホール

当日券 1,000円 全席自由

指揮 佐々木新平

L.v.Beethoven 交響曲第6番 ヘ長調『田園』

L.v.Beethoven 交響曲第5番 ハ短調

楽曲解説

 このプログラムノートでは、ある実験を試みたいと思う。以下に記すA, B, Cの3種類の曲目解説は、それぞれ異なる美学的な思想に基づいている。これらの思想は、我々の解釈実践におけるある種のこだわりと強く関連しているものであり、それゆえ、ここから《困惑》や《不安》や《いらだち》や《後ろめたさ》といったものを感じる場合があるかもしれない。特に、曲目解説Cは最も過激で、議論を呼ぶものだろう。人によっては「こんな解釈は間違っている」と言いたくなるかもしれない。
 しかし、ここで問題にしたいのは、「3つの解釈のうちどれが正しいか?」ということではない。そうではなく、「なぜ我々はある解釈を前にして、困惑や後ろめたさを覚えるのか?」「なぜ我々はある解釈を正しいと思い、別の解釈を間違っていると思うのか?」ということについて問いたいのである。ここからは、西洋近代美学の思想が我々の解釈実践にどれほど深く浸透しているかということ、そして、それゆえに、解釈に対する我々の直観がいかに混乱した状況にあるかということが読み取れるだろう。芸術作品を解釈するという行為には、単に慣習や直観に従っているだけでは済まされない、興味深い問題が潜んでいる。そのことを少しでも皆様に感じていただけたならば、この実験は成功と言える。

曲目解説A

〈交響曲第5番「運命」作品67〉

作曲:1807-1808年。

初演:1808年12月22日

アン・デア・ウィーン劇場にて、作曲者の指揮による。

 「運命はかくのごとくとびらをたたく」。弟子のアントン・シントラーによれば、第5交響曲冒頭の4音について、ベートーヴェンはこのように述べたという。この作品の「運命」という呼び名はここから来ている。現在では信憑性が疑われているこのエピソードであるが、第5交響曲のもつ「暗から明へ」という構造は、まさに作曲家ベートーヴェンのたどった運命を象徴していると言えよう。
 よく知られている通り、ベートーヴェンは難聴の作曲家である。30歳のころにはもうほとんど耳が聞こえていなかったようだ。ベートーヴェンの絶望の深さは、自殺を考えて遺書までのこすほどであった。彼が31歳のとき、保養のために滞在していたハイリゲンシュタットでのできごとである。
 「考えてもみよ、この6年間、私を襲った状況がどれほど救いがたいものだったかを。〔…〕人びとを楽しませる感性にすぐれた、情熱的で活発な気性をもって生まれた私は、早くも世間との関わりを絶って孤独に暮らさなければならなくなった。〔…〕ああ、私にとっては他の人よりもいっそう完璧でなければならない感覚、かつてはまったく理想的な状態で所有していたひとつの感覚、私と同じ分野の人でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたあの感覚、その衰えを告白することが、どうして私にできようか!」
 音楽家にとって何よりも大切なものを失った悲しみ、周囲の人に悟られることへの恐怖、そして、元来明るい性格だったにも関わらず、人との関わりを断つことを余儀なくされたことへのやりきれなさが、この遺書からはにじみ出ている。
 ところが、ここからがベートーヴェンのベートーヴェンたる所以ともいうべきところなのだが、絶望を綴るうちに、彼の心は徐々に希望を取り戻していくのである。「そのようなことがたびたびあって、私はほとんど自暴自棄になっていた。私はすんでのところで、自らの命を自らの手で終わらせるところであった。——芸術、ただそれだけが私を引き止めた。私が志向しているすべてのものを生み出すまでは、この世界を離れることはできそうにないと思われたのだ。」
 絶望の淵から彼をこの世へ引き止めたのは、音楽家としての使命感であった。そして、遺書の最後にベートーヴェンはこう記す。「いくら私の運命が過酷であるとはいえ、死がやってくるにはあまりに早すぎる。」
 この遺書から6年後に発表されたのが、第5交響曲である。そこには、聴力を失った自らの運命と、それに抗おうとする心のうちのひとすじの希望が表現されている。まさに、運命はかくのごとくとびらをたたくのである。

〈交響曲第6番「田園」作品68〉

作曲:1807-1808年。

初演:1808年12月22日

アン・デア・ウィーン劇場にて、作曲者の指揮による。

 ハイリゲンシュタットの遺書によると、ベートーヴェン自身は耳の病気のせいで周囲から気むずかしい奴だと誤解されていると思っていたようだ。しかし実際のところ、彼の性格は客観的に見ても矛盾に満ちたものであった。遠慮がなく強情で、自尊心が強く、親切かと思うと突然冷酷になったり、むすっとしているかと思うと急に威勢が良くなったりした。このような気性のおかげで、彼の人間関係には諍いが絶えなかった。彼の友人関係は、いつもささいな誤解か大げんかによって打ち切られた。
 このような粗野で高潔な態度は、耳の病気が悪化するにつれて、どんどんひどくなっていった。他人とのコミュニケーションがままならないことによって、彼はますます内気で、猜疑的になっていった。友人との思想の交換の機会は文通に限られ、何日も返信がもらえないと塞ぎ込むようになった。
 そんなベートーヴェンを慰めたのが、自然の風景であった。多くのウィーン市民と同様、ベートーヴェンも毎年夏になると市街を離れ、郊このプログラムノートでは、ある実験を試みたいと思う。以下に記すA, B, Cの3種類の曲目解説は、それぞれ異なる美学的な思想に基づいている。これらの思想は、我々の解釈実践におけるある種のこだわりと強く関連しているものであり、それゆえ、ここから《困惑》や《不安》や《いらだち》や《後ろめたさ》といったものを感じる場合があるかもしれない。特に、曲目解説Cは最も過激で、議論を呼ぶものだろう。人によっては「こんな解釈は間違っている」と言いたくなるかもしれない。しかし、ここで問題にしたいのは、「3つの解釈のうちどれが正しいか?」ということではない。そうではなく、「なぜ我々はある解釈を前にして、困惑や後ろめたさを覚えるのか?」「なぜ我々はある解釈を正しいと思い、別の解釈を間違っていると思うのか?」ということについて問いたいのである。ここからは、西洋近代美学の思想が我々の解釈実践にどれほど深く浸透しているかということ、そして、それゆえに、解釈に対する我々の直観がいかに混乱した状況にあるかということが読み取れるだろう。芸術作品を解釈するという行為には、単に慣習や直観に従っているだけでは済まされない、興味深い問題が潜んでいる。そのことを少しでも皆様に感じていただけたならば、この実験は成功と言える。外の田舎町で過ごすことを習慣としていた。都会の喧騒を忘れて森の中をゆったりと散歩する時間は、彼にとって唯一の心休まる時間であったに違いない。「どの田舎町も、なんとたやすく私の気分を満たしてくれるのだろう!私のもっとも不幸な聴覚も、そこでは私を苦しめない。田舎では、どの樹木も私に話しかけてくれるように思える。『敬虔なれ、敬虔なれ!』と。森の中は喜びに満ちている!」
 田園交響曲は、そのような自然の中での経験から生まれた作品である。それぞれの楽章の標題はつぎのようになっている。「田舎に到着したときの晴れやかな気持ちのめざめ」「小川のほとりの情景」「田舎の人々の楽しい集い」「雷鳴、嵐」「牧歌、嵐のあとの喜ばしい感謝の気持ち」。
 奇しき因縁と思われるのは、この交響曲が、遺書を書いたのと同じハイリゲンシュタットで作曲されたということだ。どん底の絶望を綴ったその土地で、この上なくすがすがしく喜びに溢れた音楽を作る。ベートーヴェンの矛盾に満ちた性格は、こんなところにも表れているのかもしれない。


曲目解説B

〈交響曲第5番「運命」作品67〉

 一般に「運命」という通り名で呼ばれている第5交響曲であるが、この標題は作曲家自身が付けたものではない。ベートーヴェンが冒頭の4音について「運命はかくのごとくとびらをたたく」と述べたという、弟子のアントン・シントラーが書いた伝記のなかのエピソードがもとになっているのである。この伝記は後年のベートーヴェン解釈に大きな影響を与えたものだが、現在ではその信憑性はかなり疑わしいとされている。シントラーというのは、ベートーヴェンの死後に自分に都合の悪い資料を改ざんしたり、破棄したりした人物だからだ。実際彼は、ベートーヴェンからもあまり信用されていなかったようである。こういった事情を鑑みると、第5交響曲を「運命」という名称で呼ぶのは少々軽率であると言わざるを得ない。それは、単に不適切であるばかりではなく、誤ったイメージを作品に与え、作曲家の意図を無視することにつながりかねないのだ。
 我々がすべきなのは、世の中に流布している根拠のないイメージに惑わされずに、作曲家がこの作品にこめた表現を感じとることである。そのために我々は、この作品の音楽そのものに関心を向けなければならない。純粋な音楽は、言葉などなくても私たちの心をふるわせ、概念を超えた抽象の世界へといざなう。真の芸術とはそのようなものである。
第1楽章 Allegro con brio. ハ短調 4分の2拍子。
 ソナタ形式。冒頭で、全曲を通して用いられる重要な動機が提示される(譜例1)。特に第1主題は、もっぱらこの動機のみによって構成されていると言ってもよい。第2主題の対旋律にも、この動機が現れる(譜例2)。
譜例1 譜例2 第2楽章 Andante con moto. 変イ長調 8分の3拍子。
 変奏曲。いかにもベートーヴェンらしい優しさを持った第1主題は、ヴィオラとチェロによって提示される。第2主題はまず木管に、ついで金管によって力強く奏される。第1楽章の動機の変形が節々に見られる(譜例3, 4)。
譜例3 譜例4 第3楽章 Allegro ハ短調 4分の3拍子。
 複合三部形式。低弦がおどろおどろしい主題を奏でたあと、第1楽章の動機をホルンが力強く提示する(譜例5)。トリオはフガートの形をとる。コーダから終楽章へアタッカ。
譜例5 第4楽章 Allegro ハ長調 4分の4拍子。
 ソナタ形式。ここからはピッコロ・コントラファゴット・トロンボーンが加わり、華々しい勝利の音楽となる。ここでも第1主題の動機が随所で扱われる(譜例6, 7)。展開部のあと第3楽章の回想を経て、再現は型通りに行われる。加速して長大なコーダに入り、最後は第1楽章の動機で曲を閉じる(譜例8)。
譜例6 譜例7 譜例8

〈交響曲第6番「田園」作品68〉

 第6交響曲には、全曲および各楽章にベートーヴェン自身による標題が付けられている。これらは第5交響曲と違って作曲者の意図を反映したものであるから、この標題に沿って作品を解釈するのが、正しい鑑賞態度であろう。1点注意しておきたいのは、この作品は単に自然の様子を音によって再現したものではないということである。初演時に使用されたヴァイオリンのパート譜には、ベートーヴェン自身の手によって次のように書かれている。「田園交響曲あるいは田舎での生活の思い出。絵画描写というよりも感情の表出」。単に風景を音によって描き出すのではなく、そこから湧き上がる人間の感情を表現した音楽をつくること、それこそがベートーヴェンのめざしたものである。
 ここでも、我々が忘れてはならぬのは、純粋な音楽そのものに耳をかたむけることである。言葉は作曲家の残した手がかりではあるが、作品の本質ではない。本質はあくまで、我々の耳にきこえてくるもののなかにあるのだ。じじつ、ベートーヴェンも次のように述べている。「風景描写を器楽で追及しすぎると、本質がかえって失われることになる。〔…〕これまでにほんのちょっとでも田舎暮らしを経験したことのある者なら、長々とした標題に頼ることなく、作曲家が意図したものを感じ取ることができるだろう。また、説明文がなくても、単なる音による絵画としてではなく、感情に満ちた全体像としてこの作品を理解してくれるに違いない。」
第1楽章 「田舎に到着したときの晴れやかな気持ちのめざめ」
Allegro ma non troppo. へ長調 4分の2拍子。
 ソナタ形式。農民的な空白五度の響きにのって第1主題が提示される(譜例9)。第2主題は旋律的な要素よりも和声的な明瞭さを求めたもの。
譜例9 第2楽章 「小川のほとりの情景」
Andante molto mosso. 変ロ長調 8分の12拍子。
 ソナタ形式。弦楽器が第1主題を提示する。各小節の終わりに、第1ヴァイオリンが水の流れを思わせる動機を加える(譜例10)。第2主題はアルペジオで高音から下降し、ふたたび上昇する。展開部、再現部を経て、コーダでは木管楽器が鳥のさえずりを描写する。
譜例10 第3楽章 「田舎の人々の楽しい集い」
Allegro へ長調 4分の3拍子。
 複合三部形式。舞曲的性格の色濃い楽章。主部後半ではオーボエがシンコペーションを含んだ愛らしい主題を奏で、そこへファゴットが単純なリズムの合いの手を入れる(譜例11)。第4楽章へアタッカ。
譜例11 第4楽章 「雷鳴、嵐」
Allegro ハ長調 4分の4拍子。
 荒れ狂う自然を描写した音楽。ティンパニ・ピッコロ・トロンボーンが加わる。終楽章へアタッカ。
第5楽章 「牧歌、嵐のあとの喜ばしい感謝の気持ち」
Allegretto へ長調 8分の6拍子。
 ロンドソナタ形式。冒頭でクラリネットとホルンによって示された動機が発展していき、第1ヴァイオリンが牧人の歌を提示する(譜例12)。第2主題は跳躍音程を徐々に広げていく印象的な素材を用いている。
譜例12


曲目解説C

 ある名も無い歌を聴いて、それがどんな場面を歌っているのか、どんな感情を乗せた歌なのかを想像するのは自然なことである。このようなことを、我々はどちらかといえば子供のころによくやっていたかもしれない。ピアノ教師がみじかい曲を弾いて、これはどんなシーンで、どんな気持ちを表しているかと子供に問う。このとき子供たちは、自由に想像してごらんなさい、と言われる。けっして、こう考えなさい、こう解釈しなさいと指示されることはない。そこには、無限の想像の可能性がひろがっている。
 ところが、大人になって音楽を聴こうとするとき、そのような可能性は忘れ去られてしまう。私たちは、作品の解釈という目標を定めて、作曲家の伝記を読み、作曲の歴史的背景を知り、そのときの作曲家の心情を探ろうとする。だがそれは、はたして自然な態度と言えるのだろうか。むしろ私たちは、素直な子供の心を取り戻して、流れてくる音楽から自由なイメージを描き出すべきではないだろうか?このとき、その音楽は作曲家の手を離れて、我々鑑賞者の心にゆだねられている。もはや、「運命」が「運命」である必要も、「田園」が「田園」である必要も無いのだ。たとえば、以下に示すように。

〈交響曲第5番「革命」 作品67〉
第1楽章 Allegro con brio. ハ短調 4分の2拍子。
 革命のテーマ。不気味な予感を秘めた第1主題は、政府の重圧を思わせる。第2主題は徐々に力強さを増し、圧政に苦しみながらも立ち上がろうとする民衆の姿が描かれる。
第2楽章 Andante con moto. 変イ長調 8分の3拍子。
 犠牲者へのレクイエム。第2主題は民衆の決意を表すようなファンファーレ。レクイエム主題は変奏されて、復讐の呼び声のように発展していく。
第3楽章 Allegro ハ短調 4分の3拍子(終楽章へアタッカ)。
 貧しい農村の様子が描かれる、弦楽器の不気味な上行音形は、重税、農作物の不作、物価上昇、飢饉などに苦しむ農民の姿を表す。トリオでは1楽章の主題の変形も現れ、革命の希望が農村にも広がっていることが示される。
第4楽章 Allegro ハ長調 4分の4拍子。
 民衆の勝利の音楽。不安や絶望は払拭され、希望と喜びが描かれる。革命のテーマがときおり顔をのぞかせ、不屈の民衆の力を誇示するかのような圧倒的なクライマックスが築かれる。

〈交響曲第6番「家庭」 作品68〉
第1楽章 Allegro ma non troppo. へ長調 4分の2拍子。
 休日の朝。カーテンのすきまから光が差し込む。キッチンからはコーヒーとパンケーキのにおい。妻が朝食を作る音が聞こえる。今日は私たちの結婚記念日。良い一日になりそうだ。
第2楽章 Andante molto mosso. 変ロ長調 8分の12拍子。
 二人で公園へ散歩に出かけた。小川のせせらぎ。太陽に照らされた噴水のきらめき。子供達があちこちをはしゃぎまわっている。木々の間からは、私たちを祝福するかのように、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。
第3楽章 Allegro へ長調 4分の3拍子(第4楽章へアタッカ)。
 散歩中、偶然学生時代の友人に出くわした。悪いが妻には先に帰ってもらって、水いらずで再会を喜びあうことにした。せっかくだから仲間たちにも声をかけて、どこかで一杯やろうじゃないか。
第4楽章 Allegro ハ長調 4分の4拍子(終楽章へアタッカ)。
 まずい。すぐに帰ると言ったのに、気づいたら夜が更けていた。怒っているだろうか…。小走りに家路につく。玄関をそっと開けると、そこには憤怒の形相をした妻がいた。
第5楽章 Allegretto へ長調 8分の6拍子。
 謝り倒すこと数時間、やっとのことで許してもらった。いつの間にか空が明るくなり始めている。怒り疲れたのか、妻は私の横ですやすやと眠ってしまった。私は妻の寝顔にそっと囁いた。すまなかった、これからは君への感謝を忘れないよ、と。