2019/6/30(日)
開場13:30 開演14:00
《ベートーヴェン vol.2》
武蔵野市民文化会館 大ホール
指揮 桑田歩
L.v.Beethoven 交響曲第2番 二長調
L.v.Beethoven 交響曲第7番 イ長調
アンコール
L.v.Beethoven 交響曲第1番 ハ長調より 第1楽章
数分後、彼は彼女の馬車の松明が夜をぬって飛んでいくのを見た。彼女はあえて夜に旅をしたのだった。丘のまわりは暗く、夕焼けと宵の明星は沈んでしまい、大地は闇夜の塵と煙になって、地平線には雲の処刑台が築かれていた。しかしアルバーノの中には、何か得体のしれないうれしい気持ちが、心の暗闇の中の明るい一点があった。そして彼がこの灯りの原子を見つめると、それは広がって、ひとすじの煌めき、ひとつの世界、ひとつの無限の太陽となった。今や彼は次のことを悟った。沈黙し苦しむことのできるものが、本当の、無限の、そして神々しい愛である。なぜなら、この愛は自分自身の幸福を知らずに、ただひとつの1幸福を知っているだけなのだから。
――――――『巨人』第三十四ヨベル期、第一三七周より
ベートーヴェンより7つ年上のドイツの作家、ジャン・パウルの代表作である『巨人』は、ホーエンフリース侯国公爵の次男アルバーノの半生を描いた物語である。冒頭に引用したのは、アルバーノがのちの妻イドイーネの乗った馬車を見送る場面である。
20世紀の哲学者テオドール・アドルノは、ベートーヴェンの交響曲第2番に、この小説家のイメージを結びつけた。アドルノは自身のメモに「ベートーヴェンの第2交響曲のラルゲットは、ジャン・パウル的。無限の月夜が、そのなかを通り抜けるたったひとつの有限の馬車だけに語りかける。2」と記している。
ベートーヴェンの音楽のうちに無限性を見出す考えが生まれたのは、1810年頃、彼が交響曲をいくつか発表した後のことである。ホフマンは、楽長クライスラーの像を借りて自身の芸術観を語った「クライスレリアーナ」で、「ベートーヴェンの音楽は、恐怖・戦慄・驚愕・苦痛の梃子を動かし、まさにあの無限のあこがれを、ロマンティクの本質を呼び覚ますのだ。3」と述べている。
ホフマンが無限性という観点からベートーヴェンを賞賛した背景には、ベートーヴェンに対する当時の聴衆からの辛辣な評価がある。西洋音楽においては、美しい音楽は根源的で神聖な比率に合致するものだという伝統的な思想があった。たとえば天球の音楽という発想は、星々の運動の秩序を音楽が体現しているという考えに基づくものである。音楽は美しくなければならない。音楽は調和していなければならない。このような音楽観を抱いていた聴衆は、ベートーヴェンの作る耳障りで強烈な音楽によって、音楽芸術の美が汚されていると考えた。ベートーヴェンの支持者たちは、こうした批判に、当時美学の領域で主題化されはじめていた「崇高 sublime」という概念を用いて対抗しようとしたのであった4。
崇高な経験が初めて美的体験に位置づけられたのは、1757年に書かれたエドマンド・バークの『崇高と美の起源』においてである。バークによれば、自己保存を脅かすような苦痛や危険を感じることが崇高の源泉である。それは、感じうるかぎりでの最も強い情感を我々の心に生じさせ、「我々が持つ最も感動的なものの一つ5」となる。このような感動を呼び起こす性質としては、脅怖、朦朧性、力、広大さ、無限性などが挙げられる。
イマヌエル・カントはバークの美学を受け継ぎ、崇高を感じさせる事物にはふたつの種類があると論じた。ひとつは我々の想像力の限界を超えるくらい絶対的に大きなもの、すなわち「数学的に崇高なものMathematisch-Erhabenen」である。見る者に当惑と感動を引き起こす聖ピエトロ大聖堂、その全体を決して測り知ることのできない銀河系の集合などがこれにあたる。数学的に崇高なものは、想像力の限界を超えてしまうという不快をもたらすが、そうした無限性を持つものを捉えようとする理念の働き自体は快をもたらす。それゆえ、これらは「不快によってのみ可能であるような快6」を伴う。
これに対し、大きな障害を凌駕する強大な力をもつものは、「力学的に崇高なもの Dynamisch-Erhabenen」と呼ばれる。天空にそびえる雷雲、破壊的な威力を持った火山、地上に荒廃をもたらす大暴風、巨大な滝などがこれにあたる。このようなものを遠くから眺めるとき、我々はそれを恐るべきものだと考えるが、同時に人間が自然から独立した、自然を超えた存在であることも実感する。力学的に崇高なものとは、このような畏怖と卓越性の感情を呼び起こすものであるとカントは述べる。
カントはさらに論を進めて、我々が何かを崇高だと思うとき、それを他の人に共感してもらうことは、必然的だがそれほど簡単ではないと主張する。崇高さは魅力的でもあるが、同時に不快さや恐ろしさを伴う。そのため、心の準備ができていない人、すなわち「認識諸能力の〔…〕はるかに大きな開化 weite größere Kultur 7」ができていない人にとって、それは単なる苦痛なものでしかなくなってしまうのだ。
「苦痛・危険・恐怖などに関わる快さ」という崇高さの特性は、それまでの形式的・理論的音楽美の範疇を外れた、当時の人々からしたら耳障りにも思えるベートーヴェンの音楽の価値を説明するのに適していた。ワーグナーは、「イ長調およびへ長調交響曲8、そしてそれらと内的な親類関係にある、かの巨匠が全く耳の聞こえなかった神々しい時代の作品以上に朗らかなものを、世界の芸術は何一つ創造しなかった。〔…〕ここでは、ただ崇高という美的概念が適応される。朗らかさの作用は、ただちに美しいものの満足を遥かに超えていってしまうからだ。9」として、美を超え出た崇高さを交響曲第7番に認めている。
また、崇高は「開化」した者にしか理解できないという側面は、批評家たちがベートーヴェンの音楽を擁護する際に役に立った。さきほどの「クライスレリアーナ」でホフマンは、ベートーヴェンの楽想の精選さや形式は取るに足らないと考える聴衆もいると述べた上で、「しかし、もし君たちの弱い視力が、ベートーヴェンの作曲それぞれの内面的な深いつながりを見逃しているだけだとしたらどうか?君たちがこの巨匠の、神聖さをもつ人には理解できる言語を理解できないのは、ただ君たちに非があるのだとしたら、心の奥底の神聖な扉が君たちには閉ざされていたのだとしたら?10」という痛烈な皮肉を書き残している。
ベートーヴェンの音楽と崇高さを結びつける考えは、19世紀の批評家・音楽家に留まらず、その後も長く受け継がれるものとなった。アドルノが交響曲第2番の第2楽章にジャン・パウル的な無限性を見出したのも、このような潮流に位置付けられるものであろう。また、アドルノはカント哲学における力学的に崇高なものが「ベートーヴェンと屈しないことの範11」に関連すると考えている。屈しないことという身振りの最も壮大な例は、交響曲第9番の第3楽章に見られるという。「そこではフルオーケストラのファンファーレへの応答が、第一ヴァイオリンだけで、ただしフォルテで行われる(151小節目)。弱い楽器が優勢になるのは、人間においては−−−−その声はヴァイオリンなのだが−−−−運命が限界を持っているからである12」。トゥッティで奏でられるファンファーレに必死に対抗するヴァイオリンと、圧倒的な自然を遠巻きに眺める小さな、しかし卓越した人間という存在が、ここでは対置されていると言えるだろう。
ベートーヴェンの音楽は、測り知れない絶対的な強大さを持ち、人間の卑小さと卓越した力を同時に思い起こさせる。それは、我々を無限の深淵へといざなう崇高さをはらんでいるのである。
1 強調原文。
2 Adorno (1993) [330].
3 “Kreisleriana”, Kapitel 6.
4 Gracyk (2013) p.111-112参照。
5 Burke (1757) p.72.
6 Kritik der Urteilskraft, s.127.
7 Kritik der Urteilskraft, s.133.
8 交響曲第7番、およびそれに続く交響曲第8番のこと。
9 Wagner (1870) s.36.
10 “Kreisleriana”, Kapitel 6. 強調原文。
11 Adorno (1993) [349].
12 Adorno (1993) [251].
初演:1803年4月5日、ウィーンにて
第一楽章 Adagio — Allegro con brio
ソナタ形式。序奏冒頭の32分音符+長い音符のモチーフは、1楽章を通じてところどころに現れる。力強い第一主題ののち、穏やかな第二主題をクラリネットが提示する。
第二楽章 Largetto
ソナタ形式。まさに「無限の月夜」を思わせるような第一主題が、弦と木管に交互に現れる。それに劣らず優美な第二主題も弦によって提示され、変奏されてゆく。展開部でもベートーヴェンの変奏の妙が発揮されている。
第三楽章 Scherzo: Allegro
ベートーヴェンが交響曲で初めてスケルツォと銘打った楽章であることがしばしば話題にされる。オーボエによって提示されるトリオ主題が第九の第二楽章トリオ主題に似ているともいわれる。
第四楽章 Allegro molto
ロンドソナタ形式。ユニークな第一主題、木管による牧歌的な第二主題ののち、反復なしで展開部に至る。全体の3分の1を占める長大なコーダを経て曲を閉じる。
初演:1813年12月8日、ウィーンにて
第一楽章 Poco sostenuto — Vivace
ソナタ形式。序奏はオーボエソロの独壇場である。第一主題はフルートソロによって提示される。付点のリズムをもった動機が全体を支配する。
第二楽章 Allegretto
複合三部形式。弦楽器が哀愁をおびた第一主題を静かに提示し、オブリガードを絡めつつ、だんだん楽器が増えてトゥッティに至る。同音反復が特徴的な主題である。
第三楽章 Presto — Assai meno presto
形式はABABAで、トリオが2回現れる。さらに、コーダに入ってからも短いトリオの回想がある。
第四楽章 Allegro con brio
本来弱拍であるはずの二拍目に置かれたスフォルツァンドが、この楽章に熱狂的な雰囲気を与えている。コーダで低弦によって奏されるオスティナートが印象的。
〈参考文献〉
Adorno, Theodor W (1993). Beethoven: Philosophie der Musik: Fragmente und Texte. herausgegeben von Rolf Tiedemann, Suhrkamp. 〔大久保健治訳(1997)『ベートーヴェン 音楽の哲学』作品社。〕
Burke, Edmund (1757). A Philosophical Enquiry into the Origin of our Ideas of the Sublime and Beautiful. London.〔鍋島能正訳(1973)『崇高と美の起源』理想社。〕
Gracyk, Theodore (2013). On Music. Routledge. 〔源河亨・木下頌子訳(2019)『音楽の哲学入門』慶應義塾大学出版会。〕
Hoffmann, E. T. A (1896?). “Kreisleriana”, Hoffmanns Werke Bd. 3. herausgegeben von Viktor Schweizer und Paul Zaunert, Bibliographisches Institut. 〔深田甫訳(1976)「クライスレリアーナ」『ホフマン全集』第1巻、創士社。〕
Kant, Immanuel. (2005). Kritik der Urteilskraft. herausgegeben von Heiner F. Klemme, Felix Meiner Verlag. Erstdruck 1790.〔宇都宮芳明訳・注解(2004)『判断力批判』以文社。〕
Paul, Jean (1802). “Titan”, Jean Pauls Werke. 5. T. herausgegeben von Paul Nerrlich, W. Spemann.〔古見日嘉訳(1978)『巨人』国書刊行会。〕
Wagner, Richard (1870). Beethoven. Leipzig. 〔蘆屋瑞世訳(1985)「ベートーヴェン」『ドイツ音楽の精神』北宋社、17-158頁。〕
有福孝岳ほか編(1997)『カント事典』弘文堂。
廣松渉ほか編(1998)『岩波哲学・思想事典』岩波書店。
(はらぺこエウテルペー)