2019年3月9日(土)
開場13:00 開演13:30
《ドイツ交響楽の系譜 vol.1》
国立オリンピック記念青少年総合センター カルチャー棟 大ホール
指揮 佐野智彦
W.A.Mozart ピアノ協奏曲第27番 K.595
F.J.Haydn 協奏交響曲 Hob.Ⅰ :105
F.J.Haydn 交響曲第3番「太鼓連打」Hob.Ⅰ :103
親愛なるベートーヴェン!そなたは今、長い間認められなかった願いを叶えるべく、ウィーンへ赴く。モーツァルトの天賦の才は未だ喪に服し、宿主の死を悼んでいる。それは創作意欲尽きぬハイドンに庇護を見出したが、落ち着いたわけではない。彼を通じて、再び何者かと一体になろうとしているのだ。絶えざる勤勉をもって、そなたが受け取るがよい――モーツァルトの精神を、ハイドンの手から。
本日の演奏会に際して忘れてはならないのは、この二人の先達もまた、革新の時代を経験していたということです。ヨーロッパ社会の変動が、音楽を取り巻く風景を変えようとしていました。音楽家たちは、都市の富裕層に活動の基盤を置くようになりつつあったのです。やがて、彼らは自己表現の機会を手にするようになります――モーツァルトとハイドンの二人からベートーヴェンまでの「距離」は、それほど遠いものではなかったかもしれません 。
W・A・モーツァルト(1756-1791)には、お決まりの理解があるようです。英才教育を受けた「神童」である一方、下品な言葉遣いで身内に手紙を書いた。不世出の音楽的才能を持ちながら、経済的には困窮した。こういったことから、何とかと天才が紙一重であるように読み取ろうとするのは、人の性なのでしょう。
しかしながら、晩年の経済的な困窮についていえば、これは革新的な生き方を実践しようとしたことの結果だったといえます。音楽家が聖職者や貴族に召し抱えられるのが普通だった時代に、彼は雇い主の大司教のもとを去り、帝都ウィーンである程度自立的な音楽家としての成功を狙っていました。予約演奏会方式や、富裕なアマチュア向けに発達し始めていた楽譜出版産業への売り込みなど、市場を利用しつつウィーンの上層社会に取り入ろうとする試みは、結果的には上手くいかなかったようです。移り気な聴衆を絶えず楽しませることの難しさは、推して知るべし、といったところでしょう。
ピアノ協奏曲は、自身の演奏でファンを獲得できるという利点があったためか、ウィーン移住以降17曲も作曲されています。本日演奏する27番は、1791年、彼の最後の年に作曲されたものです。清貧さえ連想させる簡素さと無邪気な朗らかさが結びついており、とりわけ終楽章は高揚感に満たされています。この終楽章は、すぐさま歌曲「春への憧れ」(KV 596)に転用されたとされています。
モーツァルトが窮乏の中で本日演奏の協奏曲を書き上げた3日後、ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)はヨーロッパ最大の都市ロンドンで歓待を受けたことを書き送っています。
「私の到着は街中に大騒ぎを起こしました。3日間というもの、ありとあらゆる新聞にあれこれ書きたてられ、人びとは私を一目見たいと好奇心でいっぱいの様子です。(中略)昨日は大規模なアマチュア演奏会に出かけました。(中略)マネージャー氏に腕をとられて中に入ったところ、ホール中央からオーケストラピットまで拍手の嵐。みなが私の顔を眺め、山ほどの賛辞が英語で降ってくるのです。聞くところによれば、これほどの賞賛を受けた人物は、ここ50年で私が初めてとのこと。」
ハンガリー貴族のための29年に亘る宮仕えを経てヨーロッパ中に名が知れ渡っていたハイドンは、この後ロンドンの貴族や市民を相手に興行を行い、大成功を収めることとなります。未曽有の経済発展の最中にあったロンドンでは、文化芸術にも富が流れ込んでいたのです。
本日演奏する2曲は、ともにロンドンでの演奏のために1790年代に作曲されたものです。至る所に、不特定多数の聴衆を満足させようとする、ハイドンの野心溢れるユーモアが感じられます。太鼓が連打される理由は明らかでないようですが、ひょっとすると、革命フランスとの戦争と何かしらの関係があるのかもしれません 。
(佐野智彦)
参考文献:
ザスロー、ニール『啓蒙時代の都市と音楽 古典派』西洋の音楽と社会⑥、樋口隆一監訳、音楽之友社、1996年。
ジョンソン、スティーヴン『西洋音楽史III―古典派の音楽』小林英美・田中健次監訳、平倉菜摘子訳、学研パブリッシング、2010年。
(ハイドンの手紙はここから引用。略は引用者)
西川尚生『モーツァルト』音楽之友社、2005年。
ポーター、ロイ『イングランド18世紀の社会』叢書・ウニベルシタス529、目羅公和訳、法政大学出版局、1996年。
画像はWikimedia Commonsより